7.Alice Springs

ここが大陸のど真ん中。360度、青空と赤土の大地。

 

せっかくダーウィンに来たなら、そのまま南に下ってエアーズ・ロックを1度くらい見てみるか。そう思った私は、次なるねらいをオーストラリア大陸のど真ん中、ウルルへの観光拠点となっているアリススプリングスに定めた。

 

ダーウィンにステイしていたとき連れて行ってもらった自然セミナーで、セントラル・オーストラリアへの興味がまたむくむくと湧いてきたこともある。次のホスト探しが難航していたので、見つからなければここは観光だけして通過するしかないかな…と思っていたが、運よく出発直前になってホストが見つかり一安心。

 

本当は南下する前に、ダーウィン近くにあるオーストラリアで最大の国立公園、「カカドゥ国立公園」にも行ってみたかったけれど、ツアーは極めて高く、Gumtree(旅仲間や相乗りなど情報交換をするサイト)でもタイミングの合う情報を見つけられずに、今回は断念。日本の四国くらいの大きさに値する巨大な公園で、世界遺産にも指定されているダイナミックな場所だ。動物は1万種以上、植物も1700種以上が確認されているという。また来たい、そう思える要素を残しておくのは悪くない。


さて、そんなノーザンテリトリーだし、せっかくなら大陸の広さを陸路移動で感じよう!と、ダーウィンからアリススプリングスまでは、21時間かけてバス移動することにした。結論から言えば、首と肩の筋肉がガチガチに凝ってしまい、しばらく「振り向く」という行為ができずに過ごすことになる。

 

それはさておき、ダーウィンを出発してわずか1時間ほどでバスのタイヤが壊れた。女性ドライバーに助けを求められ、乗客男性総出でまさかのタイヤ交換。

 

手の汚れを気にして積極的な加勢はしないインド人男性と、とりあえず外には出たが遠巻きに見ているアボリジニのおじちゃんたち。オージーらしき50歳前後のおじさんと、20歳くらいのスコットランドの若者がバスの下に入り込んで服を真っ黒にして一番がんばっている。お客様神様伝説の根付くジャパンではまず見られない光景だ。誰がクレームを言うでもなく、一時間遅れで再出発。

 

その後も、ドライバーから感謝はあれど、汗とオイルにまみれた彼らに飲み物が出るでもなく、何のケアもない。に、日本人の私はいちいち細かいことを気にし過ぎなんだろうか。きっとそうなんだろう。お客様は神様ですじゃなくて、困ったときは助け合うのが当たり前だよなぁと、少々強引な事例を持って学んだのだった。

 

早朝バスの中で目を覚ますと、景色が変わっていた。遮る高い木々のない、無辺の大地。その中に点在する低木群。太陽を待つ空は、柔らかなオレンジからピンク、紫、青とグラデーションになって広がっていた。空全体が虹のよう。

 

そしてこの空を、その後も私はセントラル・オーストラリアの夜明けや夕暮れでよく目にした。地面との境界に青を含んでいる、というのが、他の場所で見る夕焼けや朝焼けと違っていて特徴的な気がした。そんな柔らかい層の色合いが、広い広い大地のうえで、視界全体をふわりと包んでいる。それを見ているのが好きだった。

 

 

アリススプリングスの街に到着してバックパッカーズに1泊し、翌日から3日間は、ウルル&カタ・ジュダを回るキャンピングツアーに参加。その後アリススプリングスに戻り、2週間ほどまたWWOOFするという予定になっていた。

 

ウルル&カタ・ジュダを回るキャンピングツアーでは、テントもなく直接大地に置いたオーストラリア式寝袋で寝て上は星空、その状況下で外気はマイナス2度(!)、というとりあえずネタには困らない体験をする。

 

また、圧倒的な存在感や神秘のオーラを放つエアーズロックや、起伏に飛んだ地形に歴史を思わせるカタ・ジュダも、実際に目にすることができたことは、よかったと思う。ただ、それでもなお、個人的にはやはり観光客としての「よそものだけが集う」ツアーより、現地の人と生活する方が合っているなぁ、と実感もした。

 

ツアーのガイドさんから「エアーズロックはアボリジニにとって神聖なもので、アボリジニたちは登らない。観光用に登山ルートもあるし、登りたいなら止めることはできないが、僕らガイドとしては登らないようにお願いしている」と説明があった。それでも、ツアーメンバーのうち数人は登っていた。もちろん彼らは少数派ではない。日本人やオーストラリア人も含め、世界各国の色々な土地から来た観光客がたくさん登っていく。

 

最初にバスの中からエアーズロックが目に入ったとき、上手く説明はできないのだが、本能的に「これは登るもんじゃない」という神秘的な感覚を持った。何事にも動じず、静かに構えるその存在感に、畏怖とも、尊敬ともいえる感情が入り交じった。

 

今よりも文明が栄えていなかったころ、この岩の存在は彼らの目にどう映っただろう。アボリジニがこの地を神聖な場所として大切にしてきた感覚のほんの一辺を、私も感じとったような気がした。

 

 

そんな、ちょっとばかし複雑な思いを持ってツアーを終え、またバックパッカーズで1泊し、翌朝から早速、アリススプリングス近郊のキャトル・ステーションでWWOOF生活を再開。

 

ベルギー女子が先にステイしていて、牛の世話は彼女がメインにやっていたこともあり、私の仕事はホストマザーのジャンと一緒に、家事の手伝いやガーデン周りのことがメインだった。

 

広い家の中の掃除や、昼食夕食の準備の手伝い、植物への水やり、鶏小屋の掃除などなど。放牧されている牛たちが落としていった“牛の落とし物”をひたすらスコップで集めてガーデンの肥料としてまく、ということも。

 

私はここにステイして、「一家の敷地の広さ」という概念をもう一度、完璧に覆された。今までも、日本の平均的な家に比べたら圧倒的に巨大なガーデンを持つ家々にステイさせてもらっていたのだが、今回は牛を放牧するキャトル・ステーションというだけあって規模が違った。

 

ある日、私が休憩時間に家の敷地をふんふ〜んと散歩していると、赤土の中に舗装道路のようなものが見える。ん?あれはなんだろう…と思って見ていると、左の倉庫らしき建物からおもむろに、ホストファザーのグラント(お孫さんが何人もいる年齢)が路上で運転する小型飛行機がゆっくりと走ってきた。

 

 

ええ!?飛行機!?と私が口をあんぐり開けているうちに、その飛行機は私の目の前の道路をゆっくりとカーブし、そのまま直線を加速していって、颯爽と空へ飛び立っていった…。

 

 

後で聞いてみれば、グラントはほぼ毎日、空から飛行機で約3000頭という牛たちの管理を行っているのだという。牛の管理は、空から飛行機で。それくらい、果てしなく広い。休憩時間に散歩をしていると、どこまでもどこまでも、赤土、低木、青空、の3点セットが続いているように思えた。そして実際、それしか目の前に広がっていない。それがセントラル・オーストラリアだ。

 

セントラル・オーストラリアを語るもうひとつのキーワードは、乾燥。基本的に「川」と名前がついているところに、水はない。川の跡があるばかりだ。1年に何回か、大量の雨が降ると、そこを水が流れるのだという。肌はいくらクリームをぬってもすぐにカッサカサだが、洗濯物は、たとえ日差しが弱まってきた夕方4時頃に干しても、2時間後には渇いた。恐るべし砂漠気候。掃除でモップがけをしてもありえないスピードで渇く。そんな土地土地での生活感覚が分かるのもWWOOFならでは。

 

ある日、孫娘で8歳のアンナちゃんが遊びに来た。工作が好きで、編みぐるみやクッションなども作るし、賞をもらうほどの腕前。よーし、作ることが好きなら、折り紙とかしたら楽しいかな!?と、ここぞとばかりに典型的なジャパニーズ魂を発揮し、「折り紙って聞いたことある?」と聞いてみたところ、返ってきた答えは、「ORIGAMI? うん、折り紙の本持ってるよ」。

 

「そ、そうなの? すごいね!」と笑顔で返しつつ、なんてこった、やはり複合文化のオーストラリアではあえてリアル日本人が折り紙教えるまでもないのね…とシュンとなりかけたけれど、よくよく話を聞いてみれば、「でも本を見ながら折るのは、私にはすごく難しいの!」という。

 

そりゃそうだよね、折り紙の本を持っていると言っても、やはり幼い頃からの文化として折り方の基本が身についてるのとは違う。ということで、結局一緒に折り紙をしながら遊んだ。

 

 

定番の鶴や紙風船、昔懐かしいパックマン、私も最近覚えたばかりのバラ(スタンソープ時代、母の日の営業でレストランのテーブルを飾るバラ、日本人なら折り紙で作れるわよね!?とクラウディアに言われ、インターネットで必死に調べて修得した笑)。紙風船は手をラケットにして打ち合いをして遊び、パックマンは中にいろいろ書いて、占いして遊んだ。

 

自分が子どものころ、よくこうやって遊んだなぁ。占いは、何度もやっていると答えを覚えて同じ結果になるのに、子どもは選ぶこと自体が楽しくて、なかなか飽きない。そういう笑顔を可愛いなぁと思いながら見てる一方で、自分が大人になってしまった悲しさを感じたりもする。

 

アリス・スプリングスの街
アリス・スプリングスの街

 

さて、ここには2週間と少しステイさせてもらったのだが、その中で、「いつもよく手伝ってくれてるから」とのご褒美に、アリススプリングスの街へ連れて行ってもらったことがあった。

 

オーストラリア大陸のど真ん中に位置するアリススプリングスは、人口の大半が集中している沿岸部からは遠く隔絶されたアウトバック(内陸の奥地)の生活を支える拠点。

 

アウトバックに住み、学校へ通えない子どもたちのための通信教育システム「スクール・オブ・ジ・エア」のビジター・センターがあったり、小型飛行機でへき地の患者を移送する「フライング・ドクター・サービス」の基地が置かれていたりして、重要な役割を担っている。私もそれらのビジター・センターを訪れ、すぐに学校や病院へアクセスできる都市の生活とは違う、広大な内陸部の生活の形を学んだ。

 

そうして2週間ほどが過ぎ、旅立ちの朝がやって来た。支度を終えて、時間が余ったのでホスト・マザーのジャンと、遊びに来ていた孫娘のアンナちゃんと、また別の孫でよちよち歩きのジョーと一緒に、敷地内の建物をひとつひとつ、案内してもらいながら回った。

 

 

19世紀に建てられた、敷地内で最も古い小屋には、西部劇に出てきそうな趣で乗馬用の鞍や革ベルトなどが並べられている。また別の建物は、ジャンの祖母が使っていたという古いミシンや食器、雑貨などをきれいに陳列してレトロな小部屋を再現し、プチ・ミュージアムのようだ。


 

「ここはスクール・ルームよ」と案内された小さな建物は、まさにミニ教室そのもの。木製の机とイス、そして前には大きな黒板と、無線機。そう、今はもう立派な大人であるジャンの子どもたちは、かつてスクール・オブ・ジ・エアの無線教育を使って、この教室で授業を受けていたのだ。

 

当時使っていたノートや資料も保管されていて、ぱらぱらとめくれば当時の様子が目に浮かぶ。そして、彼らの子どもたち、つまりジャンの孫たちは、小さい頃からこうやって歴史的な小屋を駆け回ったり、プチ・ミュージアムで古いバイオリンを演奏する真似をして遊んでみたり、自分の親が子どものときに使った教室で無線ごっこをしたり、親が子どもの時に書いたノートを見たりしながら、遊びの一部としてこの土地の文化にどっぷりと浸かって育ってゆく。その土地で、確かに受け継がれてゆくものを見た。