番外:日本語、ごくごく。

スタンソープにステイ中、日本語の小説を久しぶりに読んで、やっぱり私はどこまでいっても日本人なんだわ!とあまりの衝撃に思わず書いた当時のノートです。特に語学に興味のない方は、眠くなってしまうだけだと思うのでこのページのスキップをおすすめします(笑)。語学や文学がなんとなく好きだよっていう方は、番外編としてどうぞお付き合いください。

 

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メェーーー。このさき、写真はないよー。
メェーーー。このさき、写真はないよー。

 

wrote on May 19 (Sat), 2012 

オーストラリアのカントリーサイド、私が今ステイしているスタンソープという小さな町の図書館に、誰が寄贈したのか日本語の書籍も20冊ほど置いてあった。なつかしい日本の文庫本たちに思わず反射的に手が伸び、ぱらぱらとめくってみる。なつかしい文字列を自然と目が追う。その瞬間「ごく、ごく、ごく」という音が頭の中で聞こえたような気がした。喉が渇ききった暑い日、カランカランと氷の浮かぶよく冷えた水を一気に飲み干して「あーっ、美味しい!」と思うときの、あの感じ。まさにそんな感じで、目が文字をさらさらとただ流れるように追いながら、ごく、ごくと、そして体内に良質な何かがスーッと浸透されていくのを感じたのだった。

 

思えば純粋な日本語の小説を読むのは一年以上前に日本を離れて以来のこと。日本にいるときは日本の小説が好きでそれなりに本を読んでいたけれど、語学留学期間中は日本語を意図的に遠ざけていたし、その後も「別に日本に帰ったらいつでも読めるしわざわざ外国にいる今読まなくても云々」と思い(怠惰なだけか)、読んでいなかった。外国語から翻訳されて出版された日本語の書籍を読む機会はあったのだけれど、そのときはまったく、上記で述べたような「ごく、ごく、ごく」という感じは経験しなかったのだ。情報を得るための読書と、言語の表現や描写を楽しむ読書とは私の中でまったく別モノらしい。

 

ともあれあまりに自分の体が正直だったので、かれこれ一年以上に渡る外国での日本語小説読書制限をあっさりと解禁し、その図書館で数冊の小説を借りた。それもなぜかそのときの自分は近年よりも、もっと昔に書かれたものや歴史小説みたいなものをより渇望していたので、その路線で夏目漱石の『こころ』と『坊っちゃん』が収録された文庫1冊も借りた。『こころ』なんて高校時代に授業でも扱ったし、その後も1、2回再読した記憶があるのだが、なんだかまた無性に読みたくなってしまったのだからしょうがない。(ところで「渇望」の使い方あってるっけ、と思って調べたら、辞書が語るその意は「のどが渇いたとき水を欲するように、心から望むこと。切望。熱望。」だって。まさに今回の体感そのものすぎて、思わず引用しちゃったじゃないか。こういうフィーリングは別に特別なものじゃなく一般的だからこそ、この言葉が生まれたんだろうけれど、私みたいにぐだぐだと説明するんじゃなしに、「渇望」の二文字を生み出した人は天才だ。たまにこうして、ひとつひとつの言葉の生まれてきた背景に思いを馳せると気が遠くなる)。

 

というわけでとりあえず『こころ』と『坊っちゃん』を、秋も深まる外国の田舎の片隅で、それはそれは有り難く読んだ。そして、大いに感動した。何ってストーリーもそれはもちろんそうなのだが、それより何よりもっと単純に、日本語の美しさに、だ。過去に日本で読んだときも、一時代前の文体になんとなく奥深さを感じたり美しさを感じたりもしていたわけだが、今回は久しぶりに日本語の長編小説に触れ、しかも外国だからか、日本語自体の豊かさというものを史上最高に感じたのだった。

 

日本語の美しさを思う。常体(〜だ、である調)、敬体(〜です、ます調)、語尾の変化が与えるニュアンスの幅広さ、表現の豊かさを思う。たとえばここに1冊の英語で書かれた本があって、それを二人の人がそれぞれ、常体と敬体とで訳したとしたら、たとえまったく同じストーリーだとしても、それぞれを読んだ受け手の印象、その小説から読み取れる世界観は圧倒的に異なってくる。

 

常体が生み出す軽快でてきぱきとしたリズム、敬体が生み出すやわらかでしっとりとしたリズム、印象、それを使い分けられるということが好きだ。たとえば『坊っちゃん』は、常体でなくてはいけない。仮にこれを全て敬体に変換したとすると、同じストーリー、同じ意味の話であってももはやそれはあの勢いほとばしる『坊っちゃん』ではない。逆に『こころ』の「先生」の遺書は、敬体でなくてはいけない。それはひとつには、この第3章が単に相手に送る「手紙」という形をとっていることから来るものなのは明らかだけれど、それだけではなくて、「先生」が今まで誰にも語らなかった真実を、内面に深く入り込んでとつとつと、かつ自分の死を前に丁寧に、丁寧に紡ぎだすその感じを表すには、敬体がふさわしい。仮にこれが常体になったとしたら、「先生」の人格が変わってしまうし、むしろそうなるとストーリーすら違うものになってしまう。

 

そして、違いは単に文体だけから生まれるものでもない。たとえば同じ常体でも、『坊っちゃん』の文章と『こころ』の前半部分の文章では、受ける印象が違う。前者は怒濤の勢いがありすっぱりとした物言いと活気のある軽快なリズム、後者は同じく言い切っているのだが淡々として冷静な印象を受ける。それは『坊っちゃん』で語尾に終始現れる江戸っ子のべらんめえ口調とか、「おれ」「連中」「ヘボ絵師」なんかの単語の選び方とか、そんなものに由来するのだろう。それらがストーリーと相まって、『坊っちゃん』を『坊っちゃん』たるものにしている。

 

でも、しかし。やはりこのように日本語の豊かさを感じるのは、単に日本語が自分の母国語で、自分がその言語に他言語よりも詳しいからなのだろうか? なんの不自由もなく母国語と同じくらいに他国の言語を操れれば、こうは思わないのだろうか? 今の私にはそこまで他国の言語を操れる能力がないため、推測でしかものを言えないのだけれど、個人的にはどこまでその言語を操れるかという知識レベルの問題だけじゃなく(もちろんその面もあるとは思っているが)、言語のそもそもの性質の違いもあるものだと思っている。

 

たとえば私は、英語に比べて日本語は繊細だなぁ、幅広くて美しいなぁと漠然と感じるわけだが、韓国の友達といろいろ話していると、韓国語と日本語はそういう意味で近い気がする。私が韓国語を完璧にマスターしたとしたら、同じように語尾や文体の変化がもたらす印象の変化に、韓国語って美しいなぁと思うようになるんじゃないか、という予期が、なんとなくある。でも英語にはそういう予期をもてなかったりするのだ。。現代社会において大変実用的な言語だとは思うし、英語ならではの発想や表現に”おもしろいなぁ”と思うことももちろんあるのだが、文章全体の雰囲気を操作するということは、日本語や韓国語の方が得意なんじゃないかなぁと感じる。言語研究をされている専門の方々から見たらきっとちゃんちゃらおかしいことを言っているかもしれないが、まあ自分以外の誰に迷惑をかけるわけでもないので、素人は素人なりに、開き直って好き勝手なことを書いておこう。笑

 

英語は率直で、素直で、よく言えばフレンドリーでフランクで、悪く言えば私にはあまりにダイレクトで、スパンとしている。常に主語があって、何が、何に、どうする、という関係が明確。クリア。英語にももちろん婉曲表現や丁寧な言い方というのも存在するけれど、それは素人の立場から見れば助動詞の置き換え(CanをCouldやMayに変えたり)や定型表現(Do you mind if...とか)のようなもので、上記で述べた明確さ、相手に向かって用件をダイレクトに伝えている感じは変わらない(と、感じる)。少なくとも、婉曲表現が丁寧表現がただ「そういう表現もたまにある」のと、「幅広く存在する、その種類の単語や文体や表現にすべてを変換することができる」というのは異なると思うし、日本語のその分野での幅広さと繊細さは、英語とは異なるんじゃないかと感じてしまう。

 

一方で日本語は「〜みたいな」「〜的な」などなどの”あいまい表現”なんて若者の過度な曖昧語が揶揄される以前から、もともとの言語自体が英語に比べたら十分ぼやっとして曖昧ベースだと個人的には思っている。主語も述語も目的語も英語よりはるかに省略されるし、そして同じ意味を伝えるとしても、言い方によって、語尾によって、微妙なニュアンスをいかようにも変えることができる。表現の豊かさ、幅広さという意味でいえば、語尾・文体の変化以外にも、各動詞自体が普通、尊敬、謙譲でまるきり変わってしまったりもする。それは口頭でも紙の上でも同じこと。

 

そんなようなことを、一冊の文庫を読みながら頭の中で並行して考えていた。外国にいて周りに日本人がいない今だからこそ、たぶんそういう感度があがっていたんだと思う。で、結論として認めざるを得ないことは、いかに他言語や異文化に憧れようとも結局私は明らかに日本人で、日本語が好きなんだなぁと(笑)。英語や他の言語を学ぶのは楽しいし、カタコトでも旅先では現地の言葉を使いたいし、これからも他言語に興味は持ち続けると思う。それは他文化を知ることでもあるから。でも感覚的に「好きだなぁ」「美しいなぁ」と思うのは、少なくとも私にとってはどこまでいっても日本語なんだろう。そんな、諦めとも誇りともつかないしみじみとした気持ちが心の中をふわふわと漂った。

 

 

 

これはこれは。ここまでお付き合いいただいた方、

どうもありがとうございました。


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